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どうせなら好きなことを書いていたい

相手を理解することは出来る、では自分は理解されるのか

正直なところ、絶対的に理解されるということはないのだと思う。

というのも自分自身がいわゆる「空気がなんとなく読めてします」タイプの人間なので、世の中でしかも自分が知っているフィールド内で同じタイプの人を探すというのは非常に困難であるというのは今までの経験上から薄々と感じている。

特に非言語的なコミュニケーションで会話が成立するタイプの人間からすると、「どうしてこのことについて言葉で説明しなくてはいけないのだろう?」と思ってしまうことも世の中としては「そんなこと言ってくれないとわからないじゃん」という常識のギャップがあり、そのことが自分の心の底でもやっとした感情を生んでいるというのはなかなか許容することが難しい。

ではどうしたらこの人の気持ちは言葉にして理解が出来るのに、自分の気持ちを察してくれる人は少ないのだろうかということについて未だ悩んでいるのだけれどもとりあえず落とし所を見つけたいと思い少し書き出そうと思った。

自分が見えている世界はその人が持つ言葉の数であるらしい

自分が大学生の時にいろんな仕事をしていろんな人とあった時に

「頭のいい人と言うのはどんな風に世界が見えているのだろうか?」

ということが頭のなかでふと浮かんでしまったので実際に東大や慶応などいわゆるアカデミックに頭のいい人達や趣味の合いそうな読書をしている人に聞いてみた。

色んな人の話をまとめていると要は自分が知覚出来る言葉が多ければ多いほど様々なものを表現できるため「人には見えないものが見える」ということらしい。確かにこれは自分が感じている感覚を自分の言葉のストックから取り出せるのであれば世界は言葉で出来ているのだなと思った。

ただひとつ聞き忘れたのは「言葉の数が足りない人と付き合う時にどのようにしていけばいいか?」ということを忘れてしまった。あまりにもユニークで議論をするということがとても楽しかったので会話することが楽しかったのだと思う。

褒められるということよりも結果を出すということに満足する

単純な話自分が理解されたという「承認欲求」を満たしてくれる人物はおそらく人生の中でも一握りということだけが大人になってよりわかったような気がする。

ただ良かったことは「自分を欲求を満たすためにどこまでも結果を追求しても良い」ということは社会人になってとても良いことだと思った。

どうして学生の時にあんなにイライラして暗い気持ちになって過ごさなければならなかったのかを一言でまとめると「自分を理解してくれない天井と物差しが決まっている世界に単に合わなかった」ということだと思った。

もし、今自分が満たされたいと思うのであればまず成功したという結果を出すことだというところが今のところの結論だ。

そしてこの結果を出すという行為はどこまでも追求していい、仮に自分とレベルの人がいなくなったとしてもより貪欲に前に進んで自分の結果に自分で満足すればいいと思ったのである。

まあ、それを相手に求めたいのであれば帰納法なり演繹法なり使ってロジカルに考えてもいいし、適当にでかい音楽を聞いて相手をぶちのめせるVRゲームにハマってもいい。それか瞑想でもすればいいんじゃないかな。

そのあとまたこの理解されないということと理解してほしいというはざまに戻って再度問いかけてみるのはいかがだろうか。

妬む人ではなく妬まれる人になればよいのだとおもいますよ。

今のところ僕は明確な答えがないまま、また期待を理解されないというモヤモヤを抱えて過ごしていこうと思います。大半は仕事に没頭してわすれてるけど