つかぱい.com

どうせなら好きなことを書いていたい

たまに起きる心の交通事故

いま僕は至って大真面目である。そう言っておこう。

人生において笑顔でいる時間が長いほうが良いことを否定はしないが

笑顔オンリーの人生というのは反面アップダウンの無いフラットな人生だということだと思う

スマホで検索をかけると

「幸せになりましょう、ハッピーになりましょう」

という言葉と

「憂鬱な気分を解決する方法」

という言葉は「憂鬱」という言葉で検索すればたくさん出てくる

別にそれはそれで良いことなのだと思う

なぜなら大半の人はそんな感情は早く直してしまいたいと願っているから

しかし、「憂鬱とうまく付き合う方法」についてはあまり言及されていない

憂鬱な気分だって大事な自分の感情の一つだ

それを害悪のように排除してしまうのは少し疑問に感じるところがあったのだと思う

憂鬱であるということは自分が自分自身を必要としている瞬間なのだ

仕事を初めて改めてそう思うことがある

なんでそんなこと改めていうかって?

それは今絶賛憂鬱だから

学生であればほとんどの時間自分自身のために時間と感情を使うことができる

では、社会に出た大人はどうであろうか?

仕事先のお客さんに暗い顔を見せるわけにはいかないだろう

家に戻って家族や彼女にも不機嫌な姿をあまり見せるわけにはいかないと思ったりするのではないだろうか

結論としては、ほとんどの時間自分以外の人のために感情を使っているのだ

故に、新卒社会人が今までの価値観のズレによって違和感を感じ、心を病んでしまう原因の一つになったりもする。

自己防衛のためにそういった反応をすることはむしろ健全である証なのではないだろうか?

多分それは間違いではない、少なくとも僕はそうだと信じたい

では、社会人に慣れてきて嘘ではないけど自分以外の人のために感情を使っていく

そうなるとどうなるだろうか?

無意識のうちに自分の気持ちとズレが生じてくる

それは、車やバイクと同じもので長時間高速道路に乗っているときと同じような状態なのだ

自分の思っているスピードと客観的に観測されているスピードにズレが発生している

では、そのスピードのまま一般道を走ったらどうなるだろう?

それが見えない信号のある交差点だったら?

答えは急ブレーキになるか、もしくは何かと衝突して事故が起こるだろう

ただ、自分はなんでぶつかったのか、急ブレーキになったのかを思い出すことは難しい

衝突してしばらくは頭がぽかんとしてる

その車にスピードメーターなどないのだし

と、自分の感情というものを具体的に例えるのであればこんな感じだろうか

衝突したら、当たり前だがとても痛い

それは、物理的だろうが精神的だろうが同じことだと思う

スピードが思いっきり乗った状態で正面衝突した日には苦しみに悶えるだろう

憂鬱という気分はおそらく衝突した痛みからできるのではないかと思う

心が交通事故を起こしている状態なのだ

それだけを聞けば早く治療しなくては身が持たないと考えるのは当然だろう

確かに、痛いことを長く味わいたいなんて思っている人はかなりの少数派だと思いたい

しかし、憂鬱である痛みを感じるということは

その瞬間、自分にとっていま一番必要としてるのは自分自身であることは紛れもない事実だと思う

人間生まれた瞬間、自分を必要として欲しいと思ったところから「不快」という感情が生まれているからだ

だから、僕は憂鬱という感情も大事にはしたい

もちろん長時間接しているのはなかなか大変だけれど

なんだか人間らしいアナログな感情でいいじゃないか

その気持ちを感じてる自分だけはバーチャルでも他人のためでもない

それを忘れてしまったら、自分自身のための自分やアイデンティティを保てなくなってしまいそうだ

だから憂鬱な自分だっていたっていい

なんだか比企谷八幡のような語り口になってしまったけど

なんだかそう思った