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どうせなら好きなことを書いていたい

少しだけ音楽を止めて、立ち止まってみると少し違う景色が見えた

来年はこの長い通勤をなんとかしようと模索しているのだけれど、なかなかうまくいかない(とりあえず何度も自宅脱出は試みるものの様々な要因に阻まれ出れない)

実際には月の半分も家にまともに帰ってはないけど

春先になったら多少痛みは伴ってもこの状態は何とかすると多少の希望的観測を持ちながら毎日電車に乗ってる。

ふと電車に乗ってる時に音楽を止めて、外を見回してみたらほとんどの人が寝てるかスマホをいじってたなーと思った。

別になんてことないことだったけど、半分働く人が乗るこの電車には楽しく電車を乗るという人が皆無だったんだなと改めて感じた。

ということは皆嫌々仕事をしているのだろうか?

行きたくもない都会の会社に行って、人間が詰め込まれたオフィスに缶詰の状態になりながら毎日を過ごすことに慣れきってしまっているのかもしれない。

Twitterを見ればもう冬場なのでボーナスがない、長時間労働だ、辛いの文字がたくさん並ぶし

友達からも「お前も大変なんだろ?」と言われて少しズキッとした。

別に普通で当たり前のことを言っているはずなのに、なんでだろうと考えた結果

あぁ今自分はやりたいことをやってるんだなと思った。

しかも楽しいし定時に帰りたいと思ったら帰れるし不満がそんなにないんだなということもに気づいた。

プログラマーには昔からなりたかったし、ブラックだとか言われても振り切ってこの仕事に入ってみたら案外そうでもなかった。

単純な違いは、効率化すると安月給だから給料が安い、ダラダラ残業したいという人がいるということだった。

でもどうしてズキっとしたのだろう?

多分今まで仲良しだった友人や周囲の人たちが大人になって共通する価値観の輪の中に入れなくなってきているのだということに少し戸惑いを感じているんだと思う。

とにかくみんなは大人になった自分は忙しくて大変な人間なんだと認めて欲しいのだ。

暇な人間は何もしてないやつで自分とは違う、自分の方がたくさん働いて偉いということを示したいということなのだろう。

ただその先には何も待ってはいないと思った。

どんなに頑張っても競合がいれば永遠にそのチキンレースをするだけですり減りながら勝ち取った椅子に座った瞬間過去の人になってしまう。

少なくとも自分は一回そうやってお金も時間も気力も限界まで使い果たしてとった結果そう思ったことがある。

なんだこの程度なのか、まだ上がいる、もっと頑張る?こんなに限界なのに?

だから僕は一生懸命という四文字熟語も人に期待するということも辞めた

例え親であってもそうなんだと思う。

残ったのはやりたいことをやるために必要か?そうでないか?

それは今すぐにやり切れるか?

という判断基準だけになった。

価値観とかではない、ただアルゴリズムのようにそうしてるだけ

それがいいかなんてわからないけど、少なくとも学校という枠の中で生きていた頃よりも自分らしく行きてるし結果もついてきてると思う。

好きなことをしてる、それに仕事の約束さえ守ればあとは自由だ

だから、音楽を止めて少し周りを見渡したって怖くない

周りが大変そうにしても自分は大丈夫

やりたいことをやっていいのだ、ただそれだけなんだから